岩明均の描く『ヒストリエ』を読んでいる。正直、読み始める前は「古代ギリシャの歴史をなぞるだけの堅い漫画だろう」とタカをくくっていた。しかし、ページをめくった瞬間にその認識は木っ端微塵に粉砕された。これは単なる歴史の再現ドラマではない。圧倒的な「個」の生き様を描いた、人間ドラマの極致だ。
主人公エウメネスという男の、あまりに賢明で、あまりに狡猾で、それでいてどこか冷めている視点。彼が直面する理不尽な運命と、それを知略ひとつで突破していく過程には、ゾクゾクするような高揚感がある。歴史的事実という「決まった結末」があるにもかかわらず、なぜこれほどまでに先が読めないのか。まるで戦場の空気に触れているかのようなリアリティと、張り詰めた緊張感が全ページに充満している。
特筆すべきは、キャラクターが「ただの駒」として消費されない点だ。誰しもがそれぞれの思惑を持ち、生き残るために泥をすすり、あるいは野望のために手を染める。その一人ひとりの命の重みが、作者特有の淡々としつつもどこか狂気を感じさせる筆致で描かれている。読んでいるこちらまで、古代の過酷な世界へ引きずり込まれ、自分の日常が急に色褪せて見えるほどだ。
歴史を知る者にとっては「次に何が起きるか」がわかっているはずなのに、それ以上に「どうやってその状況を切り抜けるのか」というプロセスに完全に脳を焼かれる。知性と暴力が交差するこの世界において、人間とはこれほどまでに脆く、そしてこれほどまでに強くなれるのか。読み終わった今、目の前のモニターが古代ギリシャの戦場に見えて仕方がない。寝る間を惜しんで読み耽ったこの読書体験は、間違いなく私の価値観を塗り替えた。歴史好き以外も絶対に読むべき。後悔はさせない。